三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。
合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。
浜松市内には、三方ヶ原の合戦にまつわる地名が残っています。たとえば、「合戦に敗れた家康軍は逃げ帰る途中に空腹をおぼえ、1軒の茶屋に寄って小豆の餅を食べていました。そこへ追ってきたのが武田軍。家康は慌てふためき代金も払わず茶屋を飛び出しました。驚いた茶屋の老婆は、数キロ先まで追いかけて、代金をもらうことに成功しました」…そんなことから、この茶屋のあった場所を「小豆餅(あずきもち)」、老婆がお餅の代金を受け取った場所を「銭取(ぜにとり)」と呼ぶようになったそうです。